前回に引き続き、私の教育観を整理していきます。(どこに需要があるのでしょうか?)
僕は、教育に携わっていますが、教育が素晴らしいだとか必要だとか全然思っていないです。
学校にしろ塾にしろ、存在しないことが理想だと思っています。でも、理想はなかなか達成できないもので、必要悪として教育の仕事が存在している。そして、需要があってお金になるから、この仕事に就いている。そう考えています。
独学こそ最強だと常々思っています。(前田英樹『独学の精神』が好きです)
そう考える理由は、私の原体験にあります。
私の最も古い記憶の1つは、母に本の読み聞かせをお願いしたときのものです。3歳か4歳くらいだったでしょうか、当時は乗り物が好きだったので、その本を読んでくれるように母に頼みました。そしたら「振りがながふってあるんだから読めるでしょ」と言われたのです(その時点で平仮名は読めました)。
寂しいような気持ちもするし、言われてみればその通りでもあるし、複雑な気持ちになったから記憶に残っているんでしょう。それからは、一人で黙々と本を読むようになったと思います。そしたら、簡単に漢字を覚えてしまいました。小学校入る前に、大人が読むような本も苦もなく読んでいました。
誰かに教わっていたら、こんなに早く伸びたとは思えないのです。
私は、塾や予備校に一切通わずに東大に受かりました(試しに夏期講習に2週間だけ通ったことはあります)。
このことを話すと「塾に通わないで受かったなんてすごいですね」と言われることが多いです。そう言われることに違和感を覚えます。独学だからこそ伸びたのだと思うのです。
当時の私は「自力で理解する楽しみを奪われたくないから、塾には行きたくない」って思っていました。
今、もう一度受験をすることになってもほとんど独学で挑戦すると思います。(一部は塾も活用するでしょうが)
第一に、人の話を聞くよりも本を読んだ方が、情報を仕入れられるスピードが遥かに速いからです。
第二に、本であれば、自分に必要な情報に絞って取り入れて、必要ない箇所は無視できます。集団指導の授業を受ける場合は、これが不可能です。
この二点から、私は独学こそが最速の勉強法だと思っています。(私が聴覚からの情報より視覚からの情報を処理することが得意なのかもしれません。その点に個人差がある可能性は否定できません。)
誰しも独学する能力を持っているが、学校教育を受ける過程で「人から説明されないと理解できない」「教わっていないことは分からない」という価値観を内面化してしまうのです。(この辺りの話は、ランシエール『無知な教師』が面白いです。)
そういう考えの人間が何の因果か、家庭教師や塾講師をしているのです。
なんとか独学の邪魔にならないように、独学の効率を上げるように。それが私が心がけていることです。(だから、私の授業は、自学の習慣がない生徒と非常に相性が悪いです)
家でできるような勉強は、授業中に行わないようにします。読めば分かるような内容、調べれば分かるような内容は解説しません。集団指導の際には、自学のやり方を丁寧にアドバイスしますが、画一的な宿題は出しません。自分に必要な勉強を各自で判断してもらった方が、いい勉強ができると思うからです。(そうやって勉強した方が生徒も楽しいでしょうし)
それでも、仕方なくこの仕事をしている以上、授業で何らかの付加価値を提供したいと思っています。
授業を受けるメリット、それは教師の視点を知ることができることだと思います。英語なら、英文がどういう風に見えているか。世界史なら、どういう切り口から歴史的事件を捉えるか。そういう教師の思考回路をなぞれることが授業のメリットです。だから、自分の思考回路をスローモーションで見せるような授業を心がけています。例えば、複雑な構文をどこから解きほぐすかを教えます。答えだけ教えないようにしています。個別指導のときは、答えは本人に参考書・問題集を参照してもらい、私からは重ねて説明しません。
文字言語より音声言語の方が、雰囲気やコツを伝えやすいと思っています。だから、私の授業は、そういう感覚的な部分を伝えることを重視しています(こういう話に全然反応を示さない学生もいるんですけどね)。