英語教師がうんざりする質問ベスト3の1つが「どうやったら速く読めるようになりますか?」です。(残り2つは「どうやったら単語が覚えられますか?」と何かでしょう。誰か考えてください笑)
スポーツの話から入りましょう。スポーツでは速さと正確さは反比例すると言われています。つまり、野球のピッチャーなら、速いボールを投げればコントロールが悪くなるし、コントロールを重視すると球速が落ちます。長文読解も同じことで、速さと正確さは反比例します。ところが、それを理解していない学生は、速さ重視で読むと「内容が取れなくなった」と感じて速度を落とします。すると今度は「間に合わなくなった」と感じて速度を上げます。以下、無限ループで、点数はいつまでもそのままです。
もう一回スポーツに話を戻して、解決策を考えてみましょう。速さと正確さを両立させるためには、単純に野球が上手くなるしかありません。これではあまりに漠然としているので、もう少し丁寧に説明すると、フォームを変えるしかないんです。野球ならリリースポイントを安定させることです。そして、直球も変化球も同じ腕の振りで投げることです。つまり、再現性が高く、汎用性が高いフォームです。毎回毎回、違うフォームで投げていたら、安定しません。
では、フォーム改造はどうやって行うか?色々なやり方がありますが、まずは正確さを徹底的に磨くのが、無難でしょう。ゆっくり正確に出来るようにする。それを少しずつ、無意識に出来るレベルにまで落とし込んでいく。それが出来れば、スピードを上げても正確さが維持できる、といった流れでしょうか。速度を上げると、フォームを意識しにくくなります。自分がどういうフォームをしているのか、自分でも把握できないものです。だから、フォームを意識できるようにして、さらに変えようと思ったら、速度を落とす方がいいです。
このとき、一旦、動作がぎこちなくなります。歩き方をいちいち意識していたら、歩きづらいでしょう?でも、このステップは必須です。なんとなくでやってきたことを、意識化して、それに手を加えます。堪え性がない人は、ここで挫折します。そして、速さと正確さの無限ループに逆戻りです。(見方を変えれば、ここを勇気づけるのが教師の仕事でもあります。)英語なら、この過程が構文解釈であると、僕は思います。さらに、フォームを無意識化して体に刷り込む過程が音読でしょう。(ただし、単純に精読→速読と進むよりも、最初から実戦的な要素も含めた方が、よりよいカリキュラムになる気がしています。この辺りは実験中です。着想のヒントは『ショーンボーンのテニストレーニングBOOK』にあります』
さて、こうやって速さを身につけたからと言って、ひたすら速く読めばいいわけではありません。
速さ一本槍で勝負するのは芸がありません。緩急をつけた方が、速さが活きます。これもスポーツと同じですね。
例えば、私は現代文なら2周半以上読みます。1周目は速読でサラッと、2周目は簡単な問題を解きながら普通に、3周目は設問に関わる重要な箇所を丁寧に読みます。速読は全体の構造をつかむために行います。ゆっくり読みすぎると、文章全体の流れがかえって見えにくくなります。難解な箇所を丁寧に読み進めていたら後になって論旨と関係のない瑣末な箇所であったと気付く、といった体験は誰にでもあるでしょう。速読をすればそのような失敗を避けられます。重要な箇所、難しい箇所の目星をつける感覚です。重要な箇所を見つけたら徹底して精読します。英語なら構文を取ります。現代文なら助詞1つにこだわるべきときだってあります。
要するに速さと遅さの使い分けが重要なのです。試験時間は限られていて、中には難しい文もあります。全部丁寧に読んでいたら時間が足りないし、全部速読していたら難問が解けません。だから、速読と精読の使い分けが重要になるのです。速さの幅が広ければ広いほど読解の実力があると言えます。実力のない学生は、全て同じスピードで読みます。ところが、前から順に同じスピードで正直に読む必要はないのです。ただ速く読めばいいのでも、ただ丁寧に読めばいいのでもなく、速く読むべき箇所を速く丁寧に読むべき箇所を丁寧に読むのです。どう使い分けるかは、センスにかかる部分が大きいですね。具体的なやり方は上手く言語化できないです。
入試レベルの文章での速読精読よりも、大学以降の勉強の方が、より速さの使い分けが必要になります。例えば、参考文献を探すときは図書館で片っ端から本をチェックします。そのときは目次や見出しを中心に、ペラペラめくって一冊数分程度で内容を掴みます。これがより速い速読です。一方で、1つの文の意味を掘り下げて、それで一本のレポートや論文を書くこともあります。1つの文と何ヶ月も向き合う。これはより遅い精読と言えるでしょう。例えば、ソクラテスは「汝、自身を知れ」というデルフォイの神託を生涯追求しました。この記事の文脈に即して言えば、これは究極の精読と言えるかもしれません。